昭和46年01月20日 夜の御理解



 天地の親神様が、氏子信心しておかげを受けてくれよと、言うておられる。おかげを頂くということは、ある意味で、やはり、大変なことだと。まぁいうなら、もう一世一代の大事業だというくらいな思いがなからなければ、出来ないと思います。先ほど、夕方でした、私、夕食終わっとりましたら、浜崎さんがやって参りました。今日何か仕事の事で車で、菊栄会に時には顔だけでも出したいと言うので、まぁ出来んからと言うて、お参りして参りました。
 特にこの色々とお話をさせてもらったり、聞いたりしたことですけれども。本当にこれは正義さん、この信心頂くということは、やはり愈々本気でお互いが、巡りの自覚というか、を持たなければいけないのだけれど、どう考えても不思議で不思議でたまらんことがある。それはどう云う事かと言うと、そう云うことであってはならないと思われるような事が、加わっておるという事実である。
 それはその、いわゆる、難儀な問題ですね。そういう難儀なことであってはならない、そういう難儀なことが起こってはならないはずのが、起こっておるということ。信心させて頂く者の上に。ただね、ただ押しやり、蹴やり的な、その時、その時のおかげを受けていくということは、いわば、御取次ぎを願い、願いをしておかげを頂くという。けども、根本的に助かるというか、これは誰が見ても、成る程、信心しよんなさったから、おかげを受けなさったと。
 これは精神面だけではない、全ての点でね、おかげを受けるということは、これは、やはり、御理解にもありますように、もう本当に七分、八分で止めるくらいな信心ではね、本当のおかげは受けられない。それには一つ、本気でお互いが、しっかりした根性をもってですね、その自身の巡り、又は家の巡りの自覚に立って、そこん所のお取り払いのいただけれることの為の信心修行が、なされなければならんなと。
 是は正義さんの周囲に起きておる色んな問題を通してから、二人でそん時話しあった事です。確かに信心させて頂くと言う事は、縁を受けると言う事は、矢張り屑の子程可愛いと仰る、その矢張り屑の子から神様は手を掛けて下さる。言うなら合楽に熱心に打込まなければならないと言うほどしの人程、矢張り巡りは深いのだと。そこでその巡りのお取り払いを受ける迄の一つの根性とでも言おうか、そこん所をです。
 ただ勿論、おかげも頂いて生き生きだけれども、特別な信心本気での信心、打込んだ信心がなされなければならないと。そこからね所謂本当に巡りの大きかったおかげで、巡りの深かったおかげで、こういうおかげを頂いたという所まで、おかげはやっぱり頂かなきゃ駄目だ。だからねちったおかげ頂けたら、もうそれに腰掛くると言った様なね根性では、本当の巡りのお取り祓いは頂けないと言うてます。正義さんもほんに、それは本当にそうですと言うて、まあ二人で話合った事です。
 矢張りねあの目先目先のおかげが二つ、三つ成就したと言った様な、勿論そのおかげも頂いていかなならん。けれども根本的な助かりの所へですね、もう一家を上げて勢を揃えて、しかもそれに取り組まなきゃいけない。そして成程巡りの深かったおかげで、というおかげをね頂かなきゃならん。所謂誰が考えても誰が見ても、成る程信心によっておかげを受けると言う事は、あぁ言う事かとまあ認めても貰い、分っても貰える程しのおかげを頂く為に、巡りの一つの自覚というかね。
 その為にはもう目先目先の( ? )信心じゃなくて根本的なね、所に取り組んでの、所謂信心がなされなければ、まあ信心の言うならば本格派とでもいうですかね、そういう一つ信心をがっちり々言う事があっても迷わん、どういう事があってもぐらつかん。それこそ買うて行く信心、又は只でする信心と最後に頂くが、そういう信心を本気で、がっちり取り組んで行くようなね、信心を頂かなければいけない思うですね。